「俺」という物語の主人公は「俺」じゃない。『俺』だ。

 「自分の人生の主役は自分」 

 うんざりするほど聞き飽きたセリフだ。この定義における主役の「自分」は俺を演じているのだろうか。特に最近そう思う。

 俺には顔が2つある。いや誰しも顔を複数持っているだろう。家族に対する「本名」の俺、「No one escapes」としての俺。嫌いなのは「本名」の俺だ。

 

 「本名」の俺

 逃げることしかできないが、逃げ方が下手で勇気もない情けない人間だ。俺はこの世界に生まれ落ちた瞬間から一般的な家族とは違った。そして寄せられる期待もまた大きかった。だが悉く裏切ってきた。父に君にも俺の遺伝子が受け継がれているから勉強できるはずだ、と俺個人を見るのではなく、俺を通して俺のことを「自分の作品」のように見られる日々だった。上手くいかなかったとき言われたのは 育て方を間違えたのかな、鋭く冷たく無感情に突き刺さる言葉だった。存在の否定だった。

 俺のやりたいことは全て否定され、結局親の敷いたレールに乗せられる。だがそのレールの枕木は俺には合ったものではなかった。俺にそのハードルを越える精神がいつのまにか抜け落ちてしまったのだ。そう俺自身ある瞬間から努力ということが出来なくなった。だが例外的に俺にも理由さえあれば努力ができるということを最近分かった。「他者の存在」だ。

 「他者の存在」に依存する俺

 他者の存在が俺に意味を与える。他者に依存しないと何かをしようと思えなくなってしまったのだ。誰かが喜ぶからやる。誰かに誘われたからやる。誰かと遊びたいから誘う。誰かと時間を共有したいから努力する。

 俺の将来のために俺が努力することが出来ない。俺が努力できる理由の中心に俺はいつも存在しない。俺の人生に俺は主役として存在できない。脇役。エキストラ。こんなことを毎日考えて過ごしている。忘れさせてくれるのは他者の存在だけだ。

 「脇役」が俺ならば「主役」とは誰なのか

 俺の人生に主役の空きができた。では誰が主役なりえるのか。もちろん俺以外の誰も主役になりえない。じゃあどの俺が主役なのか。「No one escapes」だ。

 

 「No one escapes」としての俺

 No one escapesとしての俺(以下ノーワン)は好きだ。家族といった柵もなく、俺という脇役のような気質を隠している。俺とノーワンの混じった状態を知っているのは界隈でも数名だ。上で書いたように俺はネガティブな方面で濃い人生を送ってきた。それと共に俺自身もかなり変質していった。そういった面を見せても受け入れてくれるのは本当にその数名だと思っている。大体の人にはノーワンとして接してきた。ノーワンはある種自分の理想だ。俺からなるべくネガティブな部分を消し、残った俺を表現し体現したのがノーワンだ。こいつであれば俺の人生の主役になりえる。

 

 主役を引き立たせるのが脇役の務め

 ノーワンは主役で俺が脇役。俺という人間がノーワンという人間を引き立たせるために必要なのはノーワンがどれだけ努力できるかだ。ノーワンが上に上がれば上がるほど俺との差はどんどん広がっていく。それの分だけノーワンは名主役になれる。俺という脇役はノーワンのために存在し、俺はノーワンを幸福にするために努力していく。